科学の天才家系・ワーブルグ家と彼の特異な性格
1993年、オットー・ワーブルグは高名なワーブルグ家に生まれ、そして科学の天才として育った。彼の父エミールは、ドイツを指導する物理学者のひとりであった。アルバート・アインスタイン、マックス・プランクなど、世界のトップクラスの物理学者や化学者が彼の家族と友人だった。
オットー・ワーブルグが第1次世界大戦で軍隊に入った時、アインスタインは彼に科学の発展のために国に戻るようにとの手紙を書いた。彼らはいくつかの基本法則を使って宇宙の神秘を説明した。若きワーブルグもまた、彼らと同じような美しさと単純さと明快さで、生命の働きを説明できると考えるようになった。
彼は、死ぬかなり以前に20世紀最高の生化学者と認められていた。彼の研究はがんだけでなく、呼吸と光合成の理解においても欠かせないものであった。1931年、彼は呼吸の研究でノーベル賞を受賞したが、これとは別に、受賞機会は他にも2度あった。2度とも違った発見である。
がんの原因を発見したオットー・ワーブルグ博士
記録によれば、彼は1944年にも受賞できたのだが、ナチスがドイツ人にノーベル賞の受賞を拒否させたようだ。
ワーブルグはユダヤ人の家系で、恐らくゲイだったが、ドイツに暮らし、第2次世界大戦中も研究を続けた。彼は、20世紀の前半、ドイツ人ががんに取り憑かれていることを述べた。当時、がんは他のどこの国よりもドイツで多発していた。当時ドイツが開発していた毒ガスによる被害かもしれない。スタンフォード大学の歴史学者ロバート・プロクターによれば、1920年までに、ドイツでがんの発生率が急上昇し、これがスキャンダルとなっていた。
アドルフ・ヒトラー、ジョセフ・ゲッペルスをはじめ、ナチスの指導者は、この病気を恐れていたようだ。ヒトラーとゲッペルスはナチスがソビエトに侵攻する前にがん研究を議論していた。ヒトラー個人がワーブルグの研究内容を知っていたかどうかは不明だが、ワーブルグの共同研究者の数人がプロクターに、ヒトラーの側近は、ワーブルグだけが、いつの日か、がんを治す方法を提供できる唯一の科学者であると信じていたと話した。
1930年代になると、多くのユダヤ系科学者がドイツを逃れたが、ワーブルグはドイツに残る決心をした。彼の伝記記者によると、TCA回路の発見者で後にノーベル賞を受賞する生化学者ハンス・クレブスは、当時、ワーブルグの研究室で働いていた。
クレブスは、こういう。「科学がワーブルグの人生の中心であり、それ以外はあまり重要ではなかった」
ワーブルグは、彼のための実験を行なう特別にトレーニングされた数人の技術者からなる小さなチームを何年もかけて育成していた。もし彼がどこかの国に移住して研究チームをゼロから出発することになれば、がんを退治するというミッションは大幅に遅れることを恐れた。しかし、戦後になると彼はすべての技術者を解雇した。それは、彼の第3帝国への批判を彼らがナチス秘密警察に密告したと疑ったからである。
ところで、ワーブルグはどんな人物だったのか?