2011年、アイルランドのコーク大学とマクマスター大学の科学者が、腸内細菌と脳をつなげる最もよく知られることになる画期的な論文をPNAS(米国科学アカデミー紀要)という超一流科学雑誌に発表した。

内容はこうだ。まず、水で満たされた円柱の入れ物を用意し、ここにネズミを落とす。これを「強制水泳テスト」という。そして、ネズミが円柱の底に到達することも、円柱を登り切ることもできないと諦め、無気力になってさびしく水に浮かぶまでに、どれくらいの時間、ネズミが泳ぐかを測定する。

研究者は、ネズミが浮かぶのに要する時間を「行動における失望の時間」と呼んでいる。なお、ゾロフトやプロザックといった抗うつ薬の有効性を計測したのも、この「強制水泳テスト」である。

この研究を設計した脳科学者ジョン・クリアンの率いるチームは、数週間、健康なネズミに乳酸菌を混ぜた食事を与えた。乳酸菌は、赤ちゃんが産道を通る時に獲得するバクテリアである。

 

最近の研究で、妊娠中にストレスを受けた母ネズミは、生まれてくる子ネズミに与える乳酸菌の量が少ないことが判明した。乳酸菌は、神経を抑制するギャバを大量に放出することで知られる。多くの抗不安薬は、ギャバ受容体にドッキングすることでその効果を発揮する。

クリアンは、バクテリアを多く含む食事を与えられたネズミは、長く泳ぎ、動けなくなったままの時間が短いことを発見した。彼はこういう。「まるでプロザックを服用したかのようだった」

彼らはよりリラックスしていた。このことから腸内のバクテリアはネズミの脳内の化学を変えることが推測できる。

10年前、コーク大学のチームに入るまでクリアンは、微生物学を病理学の立場から見ていた。梅毒やHIVような病気によって神経のダメージが発生するというイメージである。

ある研究分野は互いに関連しにくい。その代表が、微生物と脳である。両者が互いに関係があるとは、どうしても想像しにくい。それは、脳という臓器がかかなり守られているからだ。脳は血液—脳関門によって厳重に守られていて、栄養素を取り入れるが、バイ菌を取り込まないのである。

2011年の彼の論文では、このしくみは十分に解明できていないものの、こう推測した。腸内細菌が腸内の細胞壁に指のように伸びている感覚神経の末端に触れることによって、電気信号が迷走神経を登り、不安や恐怖なのど基礎的な感情をつかさどる脳の深部に達する、と。

この直後のこと、クリアンとテッド・ダイアンは心を変える微生物「心理微生物学」を提唱する論文を「生物学的精神医学(Biological Psychiatry)」誌に発表した。

かなり前から知られていることだが、脳内の伝達物質のほとんどが腸に由来する。たとえば、50%のドーパミン、大部分のセロトニンである。これらの物質がヒトの食欲、満腹感、消化を左右する。しかし脳科学者がこれらの物質を合成するのに微生物が大きな役割を果たしていると考えるようになったのは、つい最近のことだ。

ライテがこの問題に興味を抱き始めたのは、彼がピッツバーグ大学で博士研究員をしていた1985年、精神神経免疫学(Psychoneuroimmunology, PNI)という当時誕生したばかりの学問にドップリとつかっていた時のことである。PNIの基本的な考えは、ストレスが免疫を抑制し、病気を悪化させるというもので、当時、かなりの論争を呼んだ。1990年、ライテはこの理論を3つの単語であらわした。

ストレス>免疫>病気

ある日、彼は矛盾に遭遇した。彼が1匹のマウスが暮らしているケージにもう1匹のマウスを入れたところ、最初のマウスの免疫が強化された。バイ菌でいっぱいの歯で噛まれた後の感染症と戦うためである。

だが、驚くことに、これで感染症は止まらなかった。予想とは逆の結果が得られた。ストレスを受けたマウスが病気になった。ライテはホワイトボードに近づき、ストレスと免疫に印をつけた。彼は、ストレスと免疫が感染を起こすバイ菌に直接に働きかけるのではないかと疑った。

微生物がどのようにストレスに対応するのか? これを調べるために、彼は、ペトリ皿にウシの血清を入れ、バクテリアを植えつけた。そこに、ストレスを受けた哺乳類が放出するホルモンのノルアドレナリンを数滴たらしておいた。翌日、写真をとった。対照群の皿には何も生えてない。だが、ノルアドレナリンをたらした皿には、たくさんのバクテリアのコロニーが生えていた。バクテリアがストレスに反応したのである。

次の疑問は、バクテリアがストレスを引き起こすかどうかである。彼は、マウスにヒトに食中毒を引き起こすがマウスには免疫反応を引き起こさないカンピロバクターというバクテリアを与えた。カンピロバクターを与えられたマウスは、見た目には対照群と同じように健康そのものだった。

だが、彼がマウスを実験室の床から1メートル以上の高さに置いたガラス製の迷路に置いたところ、カンピロバクターを与えられたマウスは、高所の棚の上であまり歩かなくなった。これをヒトに当てはめれば、マウスは不安そうに見える。一方、カンピロバクターを与えられなかったマウスは、高所の厚板の上をしっかりとした足取りで歩いた。

これらの結果は興味深い。しかし、ライテは、これらの結果を公表する「微生物学」関係の雑誌を見つけるのに困った。どうやら、微生物学者は脳が大嫌いのようだ。

それでも、1998年、マウスの研究は最終的にPhysiology&Behavior(生理と行動)という雑誌に公表されたが、ほとんど注目されなかった。だが、マクマスター大学のステフェン・コリンは、この論文は新しい研究分野を開拓する「種」を含んでいたという。

コリンは、こういう。「マークのエレガントな研究はそれほど引用されないが、病原性のバクテリアを腸に入れると動物の行動が変わることを示した画期的な論文である」

後にレイテは、ウシの新生児がストレスを受けると、病原性大腸菌による感染が致死的なまでに悪化することを示した。別の実験で、彼が脂肪分の少ないハンバーガーをマウスに与えたところ、記憶力と学習能力が高まっていた。「食事を変えると、腸内細菌が変わり、行動が変わる」という考えの正しさが見事に証明された。

その後の10年間で、多くの証拠が蓄積していった。2008年、彼はワシントンに飛び、研究成果を発表した。彼はNIHから2億5000万円が得られるパイオニア賞の最終候補者のひとりだった。この賞は、別名、「突拍子もない生物医学研究のための賞」とも呼ばれる。

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