33歳の健太は高校で地理の教師をし、充実した日々を送っている。
だが、彼の一卵性双生児の兄弟である、健二は薬物依存に苦しむ。
二人の少年は横浜近郊で育ち、高校まで学業は優秀で、陸上競技でも選手であり、クラスの仲間とも良好な関係を築いていた。
多くの若者がするように、時々、兄弟は喫煙やビールを飲んだりすることもあった。
大学生になったふたりは、まずはマリファナ、次に覚醒剤を試してみた。
だが、健二はこの経験によって人生の軌道を大きく踏み外した。
大学に入学した当初、彼はごくふつうの学生生活を送っていた。
講義に出席し、友人ともうまくつきあっていた。

だが、次第に薬が彼のすべてになっていった。
彼は大学をやめ、ファストフード店や居酒屋チェーン店で単純作業に従事した。
彼は仕事を2ヶ月以上続けることはなかった。彼が解雇されるのはパターン化していた。
彼は遅刻と欠勤が多く、顧客や同僚と言い争いも頻繁に発生したからだ。
彼の行動はしだいに常軌を逸するようになり、時には暴力的でさえあった。
趣味のオートバイのために窃盗をくり返しては逮捕された。
何度か治療を試みたものの、続かなかった。
裁判所が精神科医に彼の診断を求めたが、このとき彼は30歳。
すでにホームレスとなり、駅の地下で段ボールを寝床にしていた。
彼は家族からも見捨てられ、ついに薬の奴隷、すなわち薬物依存になっていた。
健二は薬物依存になって人生を狂わせてしまったのだが、その引き金は何だったのか?
このカギがエピジェネティクスだ。エピジェネティクスは、今年3月に東洋経済新報社から出版された拙著「遺伝子のスイッチ」のテーマである。

彼とまったく同じDNA(デオキシリボ核酸のことで、遺伝情報を運んでいる物質で遺伝子はDNAの一部分である)を持った一卵性双生児のもう片方は、どのようにして彼と同じようになるという運命から逃れられたのか?

多くの人々は若いときの無茶を過去のものとし、生産的な人生を送る。一方、どうのようにして特定の人が、薬物の摂取によって生涯にわたる依存に導かれるのか? これらの疑問は新しいものではないが、脳科学者は、他の領域の発見を活用することによって、回答を見つけるための新しい手段を獲得した。
発見のひとつは、生物学者は胚の発生と発がんを研究することによって、環境がDNAのもつ情報を変えることなく、DNAの振る舞いを変えるしくみを明らかにしたことである。DNAのもつ情報とは、DNAの塩基配列(塩基配列のことをシークエンスともいう)のことである。
DNAの塩基配列を変えることなく、すなわち、DNAを変異(突然変異)させるのではなく、DNAにタグ(マークや印)をつけたり、はずしたりすることによって、その振る舞いを変えるのである。この変化は一過性であることは少なく、数年も続くことが多く、長きは生涯にわたることもある。